好きなこと
嫁いだことで洋服屋になりましたが、はじめのころは一枚もおすすめできず売ることも自信が持てず、立ち仕事ゆえの足の痛みに気が遠くなるような日々を送っていました。それがいつしか座っているより立っている方が楽になっていくのですから習慣とはすごいものです。
お店を始めたのは、夫の祖父です。足袋をミシンで作る仕事をしていたことから女性物のスーツを作って行商したのがきっかけだったとのこと。仏壇にある写真は、黒地のスーツに黒地のシャツ、そこに赤く細いネクタイをして斜に構えて笑っている姿は何ともニヒルです。
次にそのお店を引き継いだのは長男の義父でなく嫁いだ義母でした。「私はお顔が悪いから北へお嫁にきてしまったんだよ〜」などと話してくれましたが、晩年になるといよいよ銀髪が美しく控えめな微笑みとどんな時も変わらない優しい声掛けからお店は幅広い世代に支持されていったようです。
そうして夫の代へとバトンタッチされるわけですが、ちょうどその頃は地方創生、中心市街地再開発計画が盛り上がっていた時です。街の活性化のためサティをキーテナントとする7階建ての商業ビルを建てることが叶いました。その中にテナントとして入り、それまでの総合洋品店から婦人服専門店へと変えたのでした。勤めに出ていた義父も定年退職を機に義母と裏方へまわり、私が嫁いだ時には義姉やご友人がスタッフとなって家族総出の7人で休みなくお店を営業していました。
什器点検が年に2回あり、その2日が唯一のお休みでした。日々は毎日同じく、朝は同居の家で在庫のある倉庫からその日に出す商品を選別し搬入します。お掃除や種銭準備をする人、品出しして畳み整えディスプレイする人、お客様の接客と販売をする人と、指示はなくとも分担し気持ちよくお店は回っていくのでした。そんな日々に曜日は無く行事やイベントが節目となっていました。
子育てもほぼお店の中でした。双方の親に預けない日は、娘のお昼寝や宿題は空いてる試着室です。大きくなって歩ける様になると東京の仕入にも連れて行きましたし、小さな子にはハードだったと思いますが美味しいものや問屋の階段で休ませつつ1日中歩かせるのでした。ですので成人した娘は今、体力は妙にあるのはそのせいかな、と密かに思ってます。
決して自由な時間は持てませんでしたが辛かった記憶はあまり無く、むしろおすすめした服がその方にピッタリと似合って喜んでいただけたりの日々は時間があっという間に過ぎていく感じでした。店頭の商品を畳むのも並べるのも、そして何体もある人体にコーディネートをしていくのもルールは無く自由で楽しいのです。けれど出来が悪ければ売れないという答えが用意されているのもわかりやすく日々は有意義に過ぎていきました。
生涯生まれた地で過ごすものだと思っていました。ところが東北沖地震というやむを得ない状況におかれ家族で話し合い引っ越しをしました。最初こそ家族で離れて暮らす寂しさを感じましたが初めての専業主婦業は新鮮でした。何より娘と二人だけの時間が沢山あることは幸せで新たな土地で散歩をしたり話をじっくりとしたりけんかしたり月を一緒に眺めたり、生まれ育った土地にはない雲や雷にもワクワクしました。
娘の手が離れるようになるとまた次の新たな生活が始まっていくのでした。テナントを借りて「F-COBA.エフコバ」を始めました。それまでに辿って身につけたことが嘘の様に役にたちました。資金繰り、開店準備、継続は習慣でできました。他には新たなことで詐欺や災難にも遭いました。コロナ禍で臨時休業にも追い込まれました。けれどそれまでの経験からそうしたひとつづつを夫と共に乗り越えている自分がいました。
なぜ優柔不断で弱々しかった私が自営業を続けていられるのだろうかと不思議に思ったりします。
けれどその答えは、時間をかけて積み重ね知らず知らずに「人と服が好き」という気持ちが育っていたように思います。
臨時休業中には多くを考えさせられましたが、やっぱりこれからもきっといくつになっても「人と服が好き」でいそうです。